植村直己の大学の学歴や経歴は?冒険家になった理由を調べてみた!

臥竜紅梅の梅の花の写真

冒険家の、植村直己さんの高校や大学などの学歴や、経歴を調べてみました。
どうして冒険家になったかも、調べてみたのですが、人生ですねえ~~

植村直己さん、最後のマッキンリーで遭難(行方不明)になったときは、私は鮮明に覚えています。
ニュースで、頻繁に消息の行方などを、放送していました。

本当に残念でした。
冒険家で数々の秀峰や、極地点を犬ぞりで制覇して、サバイバルの極致を知り尽くしていたはずなのに!

まさに謎です。
そのあとの捜索でも、テントや備品や山頂に日本の国旗もたって・・

本人、植村直己さんだけがいない!

奥さんの「植村公子」さんとは、10年ほどの短い結婚生活でしたが、その公子さんの手記が泣けますね!

以下で紹介します。(一番下)

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植村直己さんが、マッキンレーに挑戦して、帰らぬ人になってから、今年で34年になるようです。

あっという間の時間です。
私は当時、現役のバリバリのサラリーマンでした‥今では定年間際のフラフラのサラリーマンですが!!

このニュースは、すごい話題でした

Contents

植村直己の生年月日や大学の学歴などのプロフィールは?

植村直己さんが、今でも話題に上がるのは、どうしても稀有な冒険家だからです。

そして名言も数多く残しています。
こういった実績のある方の言葉というのは、どうしても心に響きますし、しかも的を言い当てているから不思議なんでっよね~~

では植村直己さんの、プロフィールに迫ってみようと思います。

植村直己さんのプロフィールや学歴は?

植村直己さんの簡単なプロフィールは、下記です。

名前:植村直己(うえむら なおみ)
生年月日:昭和16年2月12日
死亡認定:1884年2月13日(43歳没)
出身地:兵庫県城崎郡日高町(現豊岡市)
出身高校:兵庫県立豊岡高等学校
最終学歴:明治大学農学部卒
職業:登山家、冒険家
配偶者:1974年結婚・公子さん(妻)

(wikipediaより引用)

  • 各受賞歴
    アカデミー・オブ・アチーブメント(1970年)
    バラー・イン・スポーツ賞(1978年)
    国民栄誉賞受賞

実績については、次の経歴の項で紹介します。

  • 父:植村藤治郎
    母:梅

夫妻の6人兄弟の、末っ子として生まれる。
実家は農家で、3代前からこの「直」の字を、使用しているそうで、直己さんももれなく同じ字を使用しています。

蛇年の「巳」だったようですが、役所で間違って「直已」と登録したそうですが、学生時代から「己」(おのれ)のほうがかっこいいと、こちらを使用したようです。

確かに‥言われてみれば‥ですね。

兵庫県立豊岡高等学校卒業後、豊岡市の新日本運輸(現在は廃業)に就職します。
その後、翌年に明治大学農学部に進学。

一年、就職して働いたんですね。

では・・大学卒業後はどうなった?

植村直己さんの輝かしい実績と経歴は?

大学では「山岳部」に所属して、登山に没頭してのめりこんでいったようです。

同じ明大山岳部の小林正尚の話で、アラスカで氷河を見てきた話に、海外での登山に目覚めたような・・そんな印象を私は受けました。

大学卒業後、就職試験に失敗してしまいます。
当時は、厳しい時代だったのかもしれません。

そこで目指したのが、仕事そっちのけで、ヨーロッパアルプスの氷河を見たい!

そこでとび職のバイトでためたお金で、横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、ロサンゼルスへと向かったようです。

なんで?

生活水準の高いアメリカなら、元手となるお金をためやすいと考えたようですね。
勿論周囲は、大反対!

まじめに就職して、仕事しろ!

そんなところだったと思います。

しかし、植村さんにとっては、この決断が大きなターニングポイントだったような、そんな気が私はします。

渡航費用の足りない部分は、長兄の方が援助したり…

その後アメリカでは不法就労がばれて、その後フランスへ・・

1964年11月10日に、初のモンブラン単独登頂を目指すも、クレパスに落ちて失敗!

この失敗がのちに、リスクをマネージメントするのに、かなり役立ったように思います。

しかし、この時は運がよかったですね。

その後の活躍は、下記のとおりです。

植村直己さんの制覇した山や冒険の数々!

主な登頂実績は下記です。

1965年4月23日 – ゴジュンバ・カン登頂
1966年7月25日 – モンブラン単独登頂
1966年10月24日 – キリマンジャロ単独登頂
1968年2月5日 – アコンカグア単独登頂
1968年4月20日 – 6月20日 – アマゾン河6,000km単独筏下り
1970年5月11日 – エベレスト登頂(松浦輝男とともに日本人初登頂)
1970年8月26日 – マッキンリー単独初登頂(世界初の五大陸最高峰登頂成功)[3]
1971年1月1日 – 冬季グランド・ジョラス北壁完登
1971年8月30日 – 10月20日 – 日本列島3,000kmを徒歩で縦断
1972年9月4日 – 1973年2月4日 – グリーンランド北端シオラパルクのエスキモー宅に単身寄宿し共同生活
1973年2月4日 – 4月30日 – グリーンランド3,000km犬ゾリ単独行
1974年12月29日 – 1976年5月8日 – 北極圏12,000km犬ゾリ単独行
1976年7月 – エルブルスに登頂
1978年4月29日 – 犬ゾリ単独行で北極点到達(単独到達世界初)
1978年8月22日 – 犬ゾリ単独行でグリーンランド縦断成功
1982年8月13日 – 冬期アコンカグア第二登達成(共同)
1984年2月12日 – マッキンリー冬期単独登頂(世界初)

(wikipediaより引用)

1970年8月26日に、マッキンリー登頂に成功して、この時点で世界初の

「五大陸最高峰登頂者」

となるわけです。
すごいですね。
気の遠くなるような実績を、いとも簡単に・・読めばですが・・実際はとても難易度の高いこと!

そして・・・

1984年2月12日43歳の誕生日に、マッキンリー単独登頂を目指し、目的は達するも2月13日の交信を最後に、連絡がつかず、遭難救助隊も発見できず。

したがって、この最後の更新日の2月13日を

「命日」

と認定したようです。


(出典元:https://ja.wikipedia.org/wiki/植村直己より引用)

墓碑は板橋区赤塚の乗蓮寺にあるようです。

墓碑には草野心平さんの、植村さんを追悼する詩が、刻まれてるようですね。

『地球には もう彼はいない けれども生きている 修身に化けて 植村直己は 私たち心中に 生きつづける』

こういう詩だそうですが、確かに人間っていつかは誰でもが死に至りますが、心や実績やその存在した事実って、残った家族や周囲やまたはこういう実績のある方なら社会に、広く記憶されるんだと思います。

いい詩ですね。

植村直己さんの受賞した賞の履歴は?

主だった、生ですが、簡単に拾ってみました。

  • 1970年:アカデミー・オブ・アチーブメント
    1978年:バラー・イン・スポーツ賞
    1984年4月19日:国民栄誉賞
    1984年6月19日:デンマーク政府よりヌナタック峰を「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称

こんなような賞を受賞しているようです。

国民栄誉賞はすごいですね。

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植村直己さんが冒険家になった理由は?

調べてみたのですが、いろいろ読んでいくうちに、どうしてもやはりこの方の影響が、大きいような気がしました。

登山家・加藤文太郎(1905-1936 享年 30)

加藤さんは、植村直己さんと同郷で、多くの単独登頂を実績として誇る方で、何か感じるものがあったんでしょうね。

高校一年の時に地元の蘇武岳(1074m)に登頂して、山登り・・登山の魅力に取りつかれたようです。

なんで山に登る??

「そこに山があるから!」

って・・昔私の大学の同期で、仲のいいK君が言ってたのを覚えています。
今でも懇意にしていますが・・大分てっぺんが薄くなってますが・・

次の転機は、上記で紹介した

「明大山岳部の小林正尚の話で、アラスカで氷河を見てきた話」

で、この氷河を見たいと思った!
就職しないで、バイトで資金を稼いで・・やっぱし、できる方は、まず実行・・行動なんですね。

「あれもなければ、お金もなくコネもなく交通手段は?」

こういう方は、できない理由を並べてるに過ぎない!!

多分植村さんから行ったら、そういうことなのかもしれません。
これは自分が生きてる世界に通じるような気がします。

まずは行動!!

なんだな。

冒険家になった理由は、やはり感銘を受けた、人物の実績・・これは植村さんだけに限らないと思います。

身近な存在の、自分はいかがですか?

私自身も、やっぱしそう思う方って、いるよな~~~って思った次第です。

でも、平凡な人生ですが・・私の場合は。

・・・
どんどん人が辞めていく会社って、矢端原因があるんですよね!

人が辞める会社の特徴と理由は?仕事を辞める転職を防ぐ方法!

皆さんの会社はいかがですか?

・・・

植村直己さんのプロフィールのまとめ

植村直己さんの、プロフィールを簡単に見てきましたが、上記で書きましたが、植村直己さんは

「行動の人!」

だったような気がします。
ただ最後の、マッキンリー登頂の時の

「何が何でもマッキンレー、登るぞ」

という日記の記述が、名元禄の

「探検家になるために必要な資質は臆病者であることです」

これとは、相矛盾する気がします。
そしてこういう名言も残っています。

「怖いがゆえ、死にたくないがゆえに、自分の技術以上のことをやらないよう、自分に言い聞かせている。」

これなのに、どうしてマッキンリーで死と言う最大の「リスク」をとったのか???

いわば・・人間は完ぺきではない!

そういうことなのかな~~
と思った次第です。

皆さんはいかが思いますか~~~

・・・

マッキンリーの最後の交信はこちらです。

植村直己マッキンリー最後の交信と言葉は?記念館の場所も調べた!

・・・
成功者の法則で、この方も有名でテレビで紹介されました。

白坂亜紀の学歴や経歴や年齢は?旦那や家族はどんな方か気になる!

人との接触の付き合い方のプロとは、こういう方なんだと思います。

・・・

最後に妻の公子さんの手記から・・

「(夫は)好きなことを好きなだけやれて最高に幸せだったと思います」「『必ず生きて帰る事が本当の冒険だ』といつも偉そうに言ってたくせに…ちょっとだらしないんじゃないの?と言ってやりたい気持ちです」

なんとも・・・いい言葉です!!

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