本多正信と本多忠勝の経歴と参謀の実績は?徳川家内での確執も考察!
徳川家康の天下取りに、智謀をふるった参謀として、有名な
「本多正信」
と、いう方は、家紋も含めて、どんな方だったんでしょうか?
子は「本田正純」ですが、親には似なかったですね。
真田丸では、「近藤正臣」さん
女城主直虎では「六角精児」さん
が演じてます。
同じ参謀の「徳川四天王」の「本多忠勝」との関係などを、考察してみようともいます。
とても、1記事ですべては書けないので、端折って私個人が
「本多正信」
氏が、出演した大河ドラマなどの、1シーンを切り取って、レビューしたいと思います。
私はこう見えても、歴史大好き。
多分に主観が入ってますので、御容赦ください・
ではまずは、「本多正信」の人となりから・・
Contents
本多正信の出身地と家系と徳川家との関係は?
(出典元:wikipediaより引用)
もちろん、徳川家康と同じ「三河」(現愛知県)の出身です。
では簡単なプロフィールから。
時代:戦国時代 – 江戸時代前期
生誕 :天文7年(1538年)
死没 :元和2年6月7日(1616年7月20日)
改名 :弥八郎(仮名)、正保、正信
別名 :正行、本多佐渡
戒名 :善徳納誨院
墓所 :龍谷山本願寺
官位 :従五位下・佐渡守
幕府 :江戸幕府関東総奉行、老中
主君 :徳川家康→松永久秀→徳川家康
藩 :相模国玉縄藩主
氏族 :本多氏
父母 :父:本多俊正
兄弟 :正信、正重
妻 :毒林尼(戒名 釋屋妙受大姉)
子 :正純、政重、忠純(wikipediaより引用)
父;本多俊正の次男として生まれるとあります。
本多家は元は「鷹匠」
したがって、徳川家には、鷹匠として仕えたようです。
今川義元の、桶狭間に参戦。
そこで負傷して、びっこをひくようになったとも、言われています。
三河武士の信念で、一向一揆に加担。
ここで主君に逆らった罪で、出奔。
諸国を10年間放浪。
その間、大和の松永久秀に仕えたようですが、その後諸国を放浪したとあります。
そののち、大久保忠世の仲介で、再び徳川家康の元で、働くことに。
もとをただせば、幼なじみ。
本多正信の方が5歳上ですが、小さいころからの遊び仲間。
兄弟のようなものだったようです。
が・・そこは主君と部下。
ただ、徳川家内では、智謀派(文治派)の本多正信と、いわゆる武闘派の「徳川四天王」の代表格の
「本多忠勝」(本多平八郎忠勝)
とは、相性はすこぶる悪かったようです。(親戚関係はなく他人)
まあ~~そんなものですよね・・現代の企業にも相通じるものが、あるかもしれないですね。
いわば、本田正信の立場は、現在で言えば多分ですが・・
「専務取締役」
ですね。
さしずめ「四天王」の面々は「執行役員」かと。
ちなみのこの四天王とは
「酒井忠次」「本多忠勝」「榊原康政」「井伊直政」
の4人を指します。
この4人で、関が原に参戦したのは
「榊原康政」「井伊直政」「本多忠勝」
の三人。
井伊直政は、武田信玄の赤備えを引き継いだ、執行役員中、多分その時点で将来のホープ!
関ヶ原では、直参旗本での先鋒!(となってるのでが諸説あるようです)
榊原康政は、徳川秀忠の江戸発の軍行に軍艦で参加のため、遅れた間に合わず。
まあそれは良いとして・・・本多正信の話を次に続けます
本多正信の名シーンをレビューする
普通に書いても面白くないので、私が思ってる大河ドラマの名シーンを、ちょっと振り返ってみます。
いくつも思い出すことはできないのですが、それと記憶なので、違っていてもご容赦を。
1:豊臣秀吉が亡くなったシーン
場面は多分、徳川家康の大阪城下の屋敷。
いつものように待機していたのだが、いち早く大阪の動きを察知。
「誰だ・・」
「正信めにございます」
「朝が早いのう・今なんどきかの・してなにか?」
「太閤殿下が、お亡くなりになったよしにござります」
「まことか・・・」
「私の手下に確認したところ、ほぼ間違いないかと・」
「あいわかった」
という言葉ですが、ここの「あいわかった」で、すでに指示が出てるわけです。
阿吽の呼吸だった、場面ですね。
じつはこの時点では、誰も知らず、おそらく服部半蔵などの手下の情報かと。
このように情報網は優れていた。
それと徳川家康の寝所にも、自由に出入りできた、参謀だったいい例かと。
ちなみにこの時の本多正信役は・・たしか
「神山繁」さんだったような・・
2:豊臣神社の例大祭(正式名は忘れました)
これも同じドラマでのシーン。
「殿、太閤殿下の例大祭・・お許しになったのですか?」
「許した・・許可した・・・が・・おもろうない!」
「では、さすればこの正信めに、少々案がある故。お時間をいただきたく」
「ほ~~では好きにせい!」
即座に呼んだのは「金地院崇伝」と天海和尚。
そこで出てきたのが
「国家安康」
です。
この豊臣神社の、奉納する鐘の碑文を書いたのは、南禅寺の長老だった清韓という和尚さん。
鐘の中に、よく見ると
「家康」
という文字が。
「なぬ!!」
と言って、鬼の首を取った気分になって、大坂冬の陣にまっしぐら・
というわけです。
場面違って、今度は
本多忠勝の名場面
本多忠勝の娘は、真田丸でもご存知のように
「真田信幸」
の妻(稲)です。
関ヶ原で、上田の城での真田昌幸の奇策で、関が原に間に合わなかったので、当然真田親子は極刑!
のはずが、この本多忠勝が奮闘。
その処分を決める場面
まずは本多正信
「真田昌幸、幸村親子は極刑で、御家断絶でよろしかろうかと」
「ふん・・そうか・それでよかろう」
次に本多忠勝
「真田親子は忠義のやから、ここで情けをかければ、必ずや殿のお力になるはず。ここはこの平八郎に免じて、除名嘆願いたす所存」
「しかし、その通りはあるまい・」
ここで私の名言と感じた本多忠勝の弁は
「もしお聞きいただけなければ、この本多平八郎上州上田にこもって、殿と戦いたす!!」
と、テレビではいったんだな~~
尤もこれはテレビ・・
実際はそんなこと、主君に言うわけはないですが、しかしその位の覚悟はあったかもしれません。
実際あれだけの、抵抗をした真田親子は、高野山に追放されて済んだのですから。
そして真田丸に、つながっていくわけです。
本多正信の人柄はどんな人だった?
徳川家康の参謀で、智謀派の方だったですね。
しかし4天王の武闘派とは、合わなかったようです。
しかし関ケ原以降は、すでに戦闘派では、物事は上手くいかないことは、明白。
そこで、頭角を現して、徳川家康の信任も厚かったことが、すごくうかがえます。
寝所までの帯刀を許されてたのは、本多正信だけですから。
しかも家紋がこれまたすごいです。
徳川宗家や、分家しか許されてない、「葵紋」です。
これも驚きです。
(出典元:wikipediaより引用)
徳川家康が没後に後を追いかけるように、お亡くなりになりましたが、まさに二人でセットだった?
そんな感じがします。
ただ、思うに徳川家康が、頼まれれば断れなかった部下が
「本多忠勝」
「本多正信」
だったような気がします。
本多忠勝の唯一の、背任というか願いは、上記の真田親子。
本多正信は言うに及ばす。
しかしこんなに出世しても。禄高は1万石。
質素だったですね。
息子の「本多正純」には3万石以上は、加増は受けるな!
そう言い残したようですが、息子はその意味が分かってなかったようです。
そういうものですね。
親は優秀だと、芸能界でもそうですが、もちろん、すべてとは言いませんが、子はそれよりも勝る・・
そういう方は、まれなような気がします。
本多正信のまとめ
「本多正信」
について、書いてきましたが、徳川家康の天下取りには、欠かせない人物だったと思います。
ライバルは誰か?
ちょっと見当たりませんね。
趣向が、まったく違いますから。
徳川四天王は、いわゆる「武闘派」
この智謀派の意味は、まったく分からないかと。
関ヶ原以降は、武闘派で物事が進むほど、単純ではなくなったんですね。
しかしこの時代は、大好きな時代です。
歴史好きに取っては、避けては通れない時代です。
もちろん私も大好きです。
黒田官兵衛と、真田丸は毎週見ていました。
名場面は大体覚えているんです。
上記のシーンは、確か津川雅彦さん主演の
「葵3代」
ですね。
津川さんの将軍は、これははまってましたよ。
「ゆるしはした・・・が・・おもろない!」
と言って鼻毛を抜くんです。
確かずいぶん昔だけど、あのスーさん(三國連太郎)が、本多正信の役をやっていたのを、覚えてるんだけど・・
記憶違いかな??
渋かったような・・
・・・・・・・・・・
江戸時代と幕末や歴史記事をまとめてみました。
庶民の暮らしは当時はどうだったんでしょうか?
江戸時代の文化と生活や服装は?庶民と武士の年収や幕末まとめ!
貨幣価値は、今とは違ってもでも基準はいつの世も同じような気がします。
・・・
昔プレジデントいう雑誌があって、(今もありますが)そこに企業の管理職向けの、特集が毎月組まれてるんだな。
そこで出てくる定番が
「徳川家康」
「武田信玄」
「上杉謙信」
「豊臣秀吉」
「坂本龍馬」
「西郷隆盛」
「島津義弘」
・・
・
などなど・
まあ・・中間管理職の教育向けです。
毎月読んでました。
今はプレジデントの中身って、様変わりしました。
(余談でした)
また機会があったら、本多正信のことを、書いてみようと思います。
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